陽水の快楽とピタゴラスと偶数奇数
今日から1週間ほど仕事が少々楽。11時半に営業が終わった後、郵便局へ行き、陽水のチケットの一般先行予約を申し込んだ。
帰社後、いつものように、隣のTさんがお菓子をくれた。
私:「ありがとう。でも虫歯やからなあ。」
Tさん:「それは大丈夫ですよ。」
私:「何で?」
Tさん:「ワタシも虫歯あるから。」
私&O課長:「意味がわからん。」
(笑)
…珍しく、ボケからツッコミにまわったO課長であった。
というわけで、相変わらずちょっと油断するとすぐボケたがる1課の面々である。
が、今日は朝から空き時間を利用して竹田青嗣の「自分を知るための哲学入門」 を読んでいたので、にぎやかな2Fを避けて、 3Fで続きを読むことにした。この本は、私がはじめて読んだ哲学関係の本であり、 すでに10回以上は読んでいるはずだが、 今回は斎藤孝に従い、三色ボールペンを使いながら読んでいる。
わたしは進むことも引くこともできない生活の関係の中で困り果てていた。何とか自分の不安な状態を救いたかったのだが、 文学や思想の世界は自分を救うためにはまったく無力なものだった。
とか、
たとえば歌を唄ってみる。自分自身が聴く自分の歌は、他人が客観的に聴いているその歌よりいつもうまく聴えているものだ。 これが人間のロマン的幻想のありようである。
とか、
(タレスの「万物の原理は水である」を指して、)哲学者は、自分の世界についての総体的直観を表現しようとして言葉を用いるが、 表現された言葉は、言葉の一般的な論理規則の中に投げ込まれ、そこでいわば言葉のゲームの中に入り込む。これは言葉の宿命なのだ。
とか。
一番最後の引用部を読んだときに、3日前に書いた「小骨」 を思い出した。 「お前ののどに小骨が刺さっていようがいまいが関係ないわ」って言われるだろうが、 まあそれはそれでそう言われてもしょうがないけど、そういうことでもないのである。
で、3Fにあがってドアノブに手をかけた。カギが開いている。その瞬間、いやな予感がした。何ともいえないイヤな空気。
それでも部屋に入ってみると、イヤな空気は若干消臭されていた。
とりあえずそこで行われていた会話は無視して、読書。
そしてその人は部屋を去る間際にこう言った。
「偶数より奇数やなあ。」
…あんたはピタゴラスか?(参考はここ) 今時そんなこと言うか?偶数も奇数も同じ、整数だと、私は思うぞ。
それにしても、私がそこにいるということをまったく考慮に入れず、さらっとそういうことを言ってしまうあの人は、 やはりすごい人なのかもしれない。逆に感心するわ。
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